日本人は「自立しない」という道を選んだ【適菜 収】
エーリヒ・フロム『自由からの逃走』を読む
◾️ 冗談はよしこさん
「日本は今こそ自立を」というおなじみのフレーズで、講演で荒稼ぎし「保守ビジネス」の成功例を示してきた櫻井よしこさんが、アメリカ隷従を進め、戦後レジームからの脱却を唱えながら戦後レジームを固定化した安倍を礼賛する倒錯はどのようなプロセスにおいて発生するのか?
自立を口にするなら、わけのわからない加憲論や売国政策を真っ先に批判するはずだが、そうはならない。なぜなら本音では「自立」など考えてもいないし、よしこさんの講演に集まるオッサン連中も「自立を唱える声に耳を貸すオレは立派」という自己愛に浸っているだけだからだろう。実態は、左右を問わず、日本国民のほとんどはアメリカ隷属を望んでいるのである。アメリカケツ舐め路線、全方向売国路線を突き進む安倍政権が続いている現状を見る限り、日本人の多くは「自立しない」という道を選んだのだろう。しかし、それをはっきり認めたくないし、先の大戦における被害者感情やルサンチマンが消えることはない。その矛盾をごまかすためには工夫が必要になる。
ドイツの社会心理学者エーリヒ・フロムは自己欺瞞のプロセスを解説する。
《自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる》(『自由からの逃走』)
問題は前者である。マイケル・オークショットの議論に倣えば、西欧近代は二つのタイプの人間を生み出した。一つは判断の責任を引き受ける「個人」であり、二つ目はそこから派生した「できそこないの個人」という類型である。要するに「大衆」だ。多くの思想家が指摘するように、共同体から切断され、不安に支配された大衆は、自由の責任に耐えることができず「隷属の新しい形」(アレクシ・ド・トクヴィル)を求めるようになる。
フロムは言う。
《われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由からのがれる道をさがしたこと、他の数百万は無関心なひとびとであり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったこと、などを認めざるをえないようになった》(前掲書)
フロムはこうした人間のメンタリティーをプロテスタンティズムと資本主義の中に見いだした。
マルティン・ルターは人々を教会の権威から解放したが、人々をさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。
《ルッターの「信仰」は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点をもつ解決方法である》(前掲書)
ジャン・カルヴァンは「予定説」において人間の運命は決定されていると唱えた。
《カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれたものであり、他のものはすべて神によって罰に決定された人間であると考えた。この信仰が心理的には、他の人間に対する深い軽蔑と憎悪とをあらわすことは明らかである》(前掲書)